坂本忠規(主任学芸員)
人類が植物繊維を撚り合わせて「縄」を作り出したとき、それは早くから建築にも用いられたであろう。配置を定める縄張り、錘を垂らして垂直を測る方法、容器に張った水面を利用して水平を確かめる工夫など、縄をめぐるさまざまな知恵が生まれた。工匠たちは自然と縄に親しみ、その延長として、着色した糸を弾いて線を材料に転写する「墨打ち」の技にも、早い段階で気づいていたに違いない。実際、古代エジプトの遺跡には墨線の痕跡が残り、古代ギリシャや古代中国の文献にも墨打ちに関する記述が見られる。
古い時代には、「糸巻」と「着色容器」は別々であったと考えられる。糸を巻き取るだけなら棒に巻きつければよく、着色容器も壺や桶で十分である。現代でも地域によっては、こうした分離型の道具を使い続けている例がある。しかし、ある時期に東アジアのどこかで、糸巻きと着色容器を一体化した「墨壺」が発明された。中国の伝承では、古代の伝説的工匠・魯班の創案とされる。実際の発明者は定かではないものの、文明の発達段階からみて中国起源と考えて差し支えなく、そこから東は朝鮮半島を経て日本へ、また南は東南アジア諸国へと広まっていったのだろう。
日本では、『日本書紀』や『万葉集』に「墨縄」の語(が見られ、当初は縄のみを用いる分離型であったと想像される。しかし奈良時代の遺構から出土した資料には、すでに一体型の墨壺が確認できる。初期のものは角材を刳り抜いた素朴な凹型であったが、次第に横長で手に収まりやすい形へと変化していった。さらに破損を防ぐため尾部を閉じるようになり、糸車も回しやすい大型で薄手のものへと進化していく。
その過程で、垂直を測るため中央に金輪を備えた時期もあったようだが、使いやすさを追求する中で、垂直測定の機能は独立し、下振りへと分化していった。また、道具箱に収めて携帯することを考え、ミニマムな直方体とした一文字形や、屋外作業で墨液が乾きにくいよう池を大きくした杓文字形など、多様な形態も生み出された。 このように、墨壺の形態と機能は常に密接に関わっており、地域や時代を比較することで、その関係性を読み取ることができる。
一般に、大工が自らの道具に装飾を施すことは多くない。しかし墨壺だけは例外的に、造形や装飾に強い関心が注がれてきた道具である。この傾向は日本に限らず、中国、朝鮮、さらには東南アジアにも広く見られる。
その理由の一つとして、墨壺が主として木製である点が挙げられる。鋸や鑿のように鉄製部品が主体の道具と異なり、工匠自身が制作しやすく、自らの技量や美意識を託す余地が大きかったのである。ただし、罫引や鉋、錐など、同じく木製を主体とする道具が必ずしも華美な装飾を伴わないことを考えると、素材だけが理由とは言い切れない。
より重要なのは、墨壺が「神聖な道具」として認識されてきた点であろう。日本では、大工が執り行う建築儀式において、墨壺は曲尺や釿と並び、祭壇に供えられる特別な道具である。釿が丸太を削り、材木へと姿を変える象徴的な役割を担うのと同様に、曲尺と墨壺は「墨掛」によって材に線を与える道具である。墨線が引かれることで、木材は建築材として新たな意味と役割を与えられるのである。
さらに、古代中国における規矩準縄の思想に見られるように、墨壺(縄)が生み出す正確な直線は、円を描く規、直角を示す矩、水平を測る準と並び、世界を成り立たせる根本原理の一つと考えられてきた。こうした観念もまた、墨壺が特別視された背景に加えることができる。
このような意味を担う道具であったからこそ、墨壺にはそれにふさわしい造形が求められたのであろう。瑞獣をかたどったもの、精緻な文様を彫り込んだもの、故事や伝承を題材にした物語性豊かなものなど、その表現はきわめて多彩である。国や地域ごとに比較すれば、それぞれの文化的背景や美意識の違いが浮かび上がり、同一地域の中でも作り手の感性の差を読み取ることができる。造形の背後にある文化の違いを味わい、時に大工の遊び心が生んだユーモラスな姿に微笑むのも、墨壺鑑賞の愉しみの一つである。
大工は彫刻の専門家ではないため、墨壺の造形には素朴さが残る例も少なくない。そこに独自の味わいがある一方、日本では明治期以降、彫物を専門とする職人が墨壺制作に関わるようになり、全体の造形バランスや彫りの緻密さは一段と高められた。とりわけ名工と称される人物の作には力強さがあり、彫り込まれた動物は今にも動き出しそうな躍動感を帯びている。
それらの墨壺がどのような工程を経て形づくられるのか、制作プロセスを追ってみるのも興味深い。素材の選定にはじまり、荒取り、細部の彫刻、仕上げに至るまで、作品が完成するまでの技と手間を知ることは、鑑賞の奥行きをいっそう深めてくれる。
なかでも、実用性を超えて人に見せることを目的に巨大化し、装飾性を極限まで高めた大墨壺は、その到達点とも言える存在である。まるで彫刻作品を鑑賞するように、①全体のかたちやプロポーション、②曲線と直線の使い分けや面の起伏、③深彫りと浅彫りの対比やリズム、④目・口・毛並み・文様といった細部に目を凝らし、最後に⑤造形の主題とその意味、背景を考えてみたい。